ピアジェの発達理論
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変われる人、変われない人。
世の中には自分で自分のことが、大好きと言う人もいます。
またその逆で、自分の事が大嫌い。と言う人もいます。
これらはどうしてなのでしょう。
これはその人が、成長する過程で、自分の事を『好きになれ』『好きになるな』というプログラムを書き込まれているからなのですね。
私達の成長する過程を、ある学者は、研究結果として、大きく分けて、4段階に分類しています。
成人なさっている方は、ご自身の過去を振り返りあてはめてみると、十分理解できると思うのですね。
先ず第一段階、
生後から2歳まで。
2段階
2歳から7歳頃まで
3段階
7歳から12歳頃まで
4段階
12歳から成人
では、生後から2歳まで。この時期は言葉をしゃべることはできない時期ですが、感覚運動的知能の時期として、分類しています。
この時期の学習は、感覚を通じて、自分の中にプログラムを書き込んでいるのですね。
子育てをされた方なら分かると思うのですが、赤ちゃんて、ものをすぐに口に持っていきますよね。
また、音のなる方を見たり、少し成長すると、匍匐前進(すりながらはいはい)するでしょう。また歩けるようになると、こけてもすぐに立ち上がってあるきだしますよね。大人の私たちからすると、こういった行動はごく当たり前の成長過程としか映らないかもしれません。この時期と言うのは、子供には、目的意識があってその様な事をしているのではなく、むしろ、意識ではなく、根源的欲求の興味に近いのかもしれません。
この段階の意識の事を潜在意識と言って、大人になってから、気がつかない。また、意識では探り出すことが困難な領域の意識(潜在意識)なのですね。
こういったのも全てが、感覚的運動知能としてプログラムされているのですね。
2歳から7歳頃まで
この段階からの成長は、親にとっては一番大変なじきなのですね。なぜなら、言葉を覚える。
考える力も育ってくる時期に入るのですね。しかし、この時点の思考と言うのは、あくまで、自己中心的である。というものですね。
よく見かける光景として、お店の中で、駄々をこねている子供などは、まさにこの時期の子供なのですね。
またこの時期の子供の特徴としては、自分の目の前の興味あることに注意が向く、という傾向もみられるようです。
小学生にもなると、こういった光景も見られなくなるのは、客観的思考が身についたとも言えます。
これを言い換えると、客観的思考のプログラムが書き込まれた。ともいえるのですね。
7歳から12歳まで
この時期に入ると、だんだんと、客観的に物事を考えられるようになったり、
具体的な課題を処理できる力が身についてきます。
小学生の算数を考えると、そのことが理解できますよね。小学生の算数には、『x』『y』などを使った計算はしませんでしょ。
これは、個人差もありますが、まだ、抽象的推論で物事を考えられないからなのですね。
あくまで、具体的な事象で物事を認知していると言った段階なのですね。
12歳から以降の成長
中学生にもなると、抽象的推論をたてた、話もできるようになってくるので、
当然、中学生の数学などは、小学生までの様な、具体的な課題ではなくなってきましたよね。
この時期、この辺が難しいと感じる人というのは、成長段階の過渡期ということ。
したがって、個人差が生じるのですね。
ですから、抽象的ものごとを使って考えられることで、その後の成長過程として、
応用力や範囲性の広い物事を、考えられるようになってっくるのですね。
こういった事ができるようになるということは、仮説と検証ができるようになるということ。
その結果から、自分がたてた仮説を改善させ検証する。この作業を繰り返して行えるようになるのですね。
これはあくまで、この学者の仮説であるということ。
個人的には、おおよそ人とは、こういう成長過程をたどって、成長すると思います。これは人の成長だけではなくて、新しい物事を始める場合、なども、同じように修行を経て職人になるようなイメージですね。
なんでもそうだと思うのですが、初めて体験する事と言うのは、その個人にとっては、衝撃的なものばかりだと思うのです。
では、人は、生まれた瞬間から、体験することは、まさに、全てが初体験という事ですね。
今では、普通に使われるようになった意識や無意識。
この無意識というのが、幼児期に体験したことが、プログラムされているのですよ。
当然、自分の意識では、探ることができない領域のプログラムです。
したがって自分が、なぜ、そういう判断や考え方をするのかさえ分からない領域なのです。
プログラムがされるのは、意識がまだ未発達であるからなのですね。
意識とは、無意識よりも後に芽生えてくるもの。
したがって、幼少期の無意識にプログラムされる初期体験というものが、いかにその後の人生の元になるか。
ということが理解できると思います。
なぜなら、意識が発達していないということは、その初期体験が、良いも悪いもなくダイレクトに、無意識領域にインプットされてしまうからなのですね。
もしも、意識がこの段階で発達していれば、この初体験の認知をできるということになるわけです。
要は、自分の判断で、プログラムするかしないかの選択が可能と言うことです。
しかし、この時期はそうではないので、すべてがインプットされると言うことですね。
そして、この、インプットに直接かかわっている人というのが、その子が一番関わっている人。
すなわち、一般的には親になるわけですね。
したがって、その子、または、私達と言うのは、この無意識によって、人生が大きく変化すると言っても過言ではないのです。
例えば、この時期に、愛情たっぷりに育てられた子供は、そのままをプログラムしてしまいますよね。
しかし、怒られたり、否定され続けると、これまた、そのままをプログラムしてしまうのです。
要は、ある要求に対して、ダメ出しばかりを優先させられた子供は、要求しても、駄目である。と言うプログラムが無意識に書き込まれるわけ。
では、泣いて要求した場合、その要求が通ったとしたら、そのままを無意識にインプットするのです。
言い換えると、この様に、すべてを書き込んでいる無意識領域というものが、今のあなたであると言ってもおかしくないのです。
なぜなら、意識している『私』と言うのは、無意識を元にして、作り上げた意識であるからなのです。
要は、意識の価値基準を作っているのは、無意識であるといえるのですね。
この様に、考えますと、『三つ子の魂百まで』とうことわざがありますが、人は、むかしから、実体験として、そのことを解っていたのだろう。
この事を、仏教では、根源的な深層の意識「アーラヤ識」などという概念で教えられています。まさに、この潜在意識の事なのですね。
大人になると言うことは、意識領域へのプログラム量が増えるということ。
このプログラムとは、言うまでもなく、無意識を基準に作られた意識(フィルター)と言えます。
それを元に、経験したことを、意識領域にプログラムして更に意識(フィルター)が出来上がります。
この意識(フィルター)とは、過去の経験ということですよね。
大人になっても、本質的に変わりにくいと言うのは、この意識(フィルター)が一つや二つが変わっても、意識を作っているのは、無意識領域にプログラムされている大本のプログラムだからですね。
子供の成長と、大人の成長の差というのが、この意識(フィルター)の量でしょう。大人というのは、なんでもかんでも、すべての事に積極的にはかかわりませんよね。これは、先ほども述べましたが、意識のフィルターが邪魔しているのです。
しかし、子供の場合、そういった意識(フィルター)が少ないため、取りあえずできるのですよね。結果、体験量が大人に比べてはるかに多いのですね。これが成長という結果につながるのです。
大人に比べて子供は、先ずは、やってみようと言う姿勢なのですね。
大人の場合いは取りあえず、過去のフィルターを通してみてからの判断になりがち。
この様に、意識が未発達な頃の体験は、潜在意識にダイレクトに書き込まれるのです。
なので、幼児期の体験が大切なのが解ったと思います。
一例として、カモは孵化後、最初に見た動くものを、親と認識するらしく、一時期、ライトプレーンの横を並走して飛ぶカモの映像を、テレビコマーシャルで放映していましたが、これなどは、まさにこの刷り込みなのです。
無条件に、無意識領域にプログラムされた証なのです。これは、何も餌を与えて、調教する必要は無いそうです。
この刷り込みの厄介なところは、刷り込みを与えた側も、刷り込みを受けた側も、無意識領域で行われているため、お互いその違和感をかんじないまま時が過ぎます。
この違和感を感じるようになるのは、集団で生活を行うような場面で、自分の価値基準と世間の価値基準のズレが生じていると感じたときでしょう。
ところがどうして、自分がその価値基準をもったのかまた、変えることができないのかは、前述したことで解ると思います。
中にはその問題点を改善しようと、本や自己啓発セミナーなどに救いを求める方もいたり、宗教にはまる方もいるくらいです。
しかし、こういった事に問題があるとは、おおよそ気がつかないのですね。これは、影響を受けた側より、与えた側は、もっと深刻です。
なぜなら、与えた側、この場合ほとんどの親は、すべてに『善意』がつくのですね。
なぜなら、子供の幸せを願わない親はいないと思うからです。しかし、この善意と言う、親の意識がこの場合、怪しいのです。ここで言う『怪しい』は、その価値基準そのものは、何を基準に作られているのか?さえ疑われないまま、『善意』の価値観として、子供無意識領域へプログラムされるのです。
しかしこの親自身もそのことには気がつかないのは、先ほども述べました。
これが、いわゆる連鎖という形で、親から子へ子から孫へと連綿してゆくのでしょう。
ではこういう刷り込まれたプログラムは、変えることは可能なのでしょうか?
答えは、『いいえ変えられません。に近い、はい変えられます』だと思います。
個人的には、変えられると思いますが、変えるのは、大変難しいでしょう。
でも個人的には変えられると言う希望と、その変える手順をしっかりと行うことと、この手順を行う前に、知っておかなくてはいけないことがあります。
それは、私達は、親に、常識的基準を刷り込まれているのですね。
この常識が、私達を縛っているのですよ。ここをしっかりと押さえることができないと、先ず変わることは難しいでしょう。
だから、あなたも、この刷り込まれた常識的基準で、ほとんどの物事を判断しているのですね。
では、変わる為には、どうしたらよいかと言うと、この常識内で行動しても変わることはほとんどできないのですね。
これが、先ほどの最初答えで、『いいえ変えられません。に近い、はい変えられます。』といった理由なのですね。
何故なら、あなたは、自分で変わりたい。と思っているにも関わらず、その変えたいと思っている基準は、その常識内で変えたいと言っているに等しいのです。
これでは、変わることはできません。
管理人は、以前隣町で主婦が夫の収入を超える話を書いていますが、こういった事を実行していける方と言うのは、ほんとに変わることができるのですよ。
なぜなら、常識と言うフィルターを取っ払った状態で、物事が見れているからです。
そして、この状態で、その手順を一つ一つこなすことによって、あなたの価値基準が徐々に変化し始めるのですね。
普通の方で、自分は変わりたいと訴えている人はたくさんいますが、では、常識外のこういった事を実行できますか?と言った場合、ほとんどの人と言うのは、刷り込まれたフィルターを通して、常識的答えを導き出してしまうのです。
出来上がってしまった意識フィルターを通さずに、物事をありのまま見ると言うことは難しいのです。
おそらく変われる人は、数パーセントしかいないでしょう。
その数パーセントに入れた方というのが、甲子園に出場しようとしている野球少年、オリンピック選手、芸能人や、アーティスト、スポーツ選手、個人事業主、漫画家、他にもたくさんいます。
要は、常識フィルターを通さないで、自分がしたい事、やってみよう。おもしろそう、楽しそうと思ったことの、することをするのです。
この事が基本なのです。ここは、常識的判断ではなく、無意識領域の判断なのですね。
ところが、それに、常識的判断のフィルターが掛かると、そんなの君には無理でしょう。
私ができるはずがない。
だまされている。
こういう理由を考えだすのです。するとこの様な理由は、砂漠の砂程でてくると思います。
なぜなら、常識だからです。
これが変わる人、変わらない人の答えと言うことです。
参考ページ:隣町で主婦が夫の収入を超える話